1ヶ月ほど、いろいろなものを押し込めて駆け抜けていたら、常にアドレナリン全開で疲れてるのに眠れない、気が休まらない日々が当たり前になっていた。
なんだか他にもいろんなものが麻痺してしまっているみたいなので、日常に戻っていくために、気持ちの整理で書き出すことにしました。
4月末に父が他界した。
癌だった。
病院嫌いで体調不良を無視し続けた結果、
行った時にはもう手遅れだった。
身体中がダメになっていた。
自業自得過ぎて呆れた。
ばかだなぁと何度も思った。
病院で出来ることは何も無く、
父は自宅療養しながら通院することになった。
いろんな合間を縫って家に帰ってはいろんなことをした。
父の体はすごい速さで弱っていった。
会う度に痩せて小さくなっていった。
ただ、私は痩せていく父の姿よりも当たり前のことが出来なくなっていくことの方がなんだか堪えた。
ぺろりとご飯を平らげる父のお皿にご飯が残ることが嫌だった。
食べきれないことに引け目を感じて手が伸びにくくなってく父を見るのが嫌だった。
本当はお腹いっぱいだったけど「私最近お腹空くんだよね〜」と言って父のご飯を平らげた。
当たり前だけど太った。
でも父が「花奈子が食べてくれるなら」と出先でラーメンを頼んだ時は嬉しかった。
4月の中頃、体調が急変し酸素吸入器が手放せなくなるほど悪化した。
数日前までは自分で運転だって出来ていたのに。
そんなある日、帰宅して食卓に着いた私を見て
「花奈子、そんな綺麗な服でご飯食べるの勿体ないよ。」
と父が言った。
何度も途切れ途切れになりながら。
酸素吸入器の酸素を頑張って吸いながら。
そんな事を言うために一生懸命だった。
こんななんて事ない会話ですら難しくなったことがショックだった。
頭を鈍器で殴られたような感覚だった。
多分、父の病気を知ってから初めて泣いた。
理解はしてるのに実感がうまく伴わないまま、自宅療養中、眠るように父は息を引き取った。
たまたま実家に帰った日のことだった。
母が気づき、私が医師へ電話をした。
息をしていないこと
脈がないこと
心音が聞こえないこと
瞼を開けても反応がないこと
電話越しの医師の指示に従いそのすべてを私が確認した。
父の死をこの手で確認する日が来るなんて流石に思ってもみなかった。
「もう、駄目ですね。」
その声が、なんだかいつまでも離れなかった。
父の手を一生懸命握る母に私からは言えなかった。
夏みたいに暑かった3月のある日。
癌の宣告を受けてからきっぱり煙草もお酒も止めた父が、日向ぼっこをしながら
「あー、飲みたいなぁ」
となんとも言えない顔で笑った。
「じゃあ、来年の誕生日は一緒に飲もう」
と言ったら父はまた、なんとも言えない顔で笑って頷いた。
あの日の父を思い出した。
この先も一番思い出す気がした。
数時間のうちに葬儀屋さんが大量のドライアイスを持ってきてくれた。
てきぱきと手際良く父の周りに敷き詰められるドライアイス。
整えられてる間に連絡した兄弟が集まった。
みんな揃ってお線香をあげた。
言葉はなんにも出てこなかった。
息を引き取った翌日から、自営業の父が馬鹿みたいに残していった大量の仕事や山積みの書類、鳴り続ける仕事の電話を毎日缶詰になりながら処理した。
舞台の稽古が始まっていたが何日か休みをいただいた。悔しかった。不安だった。
それでも兄弟の中で父の仕事のことを聞かされて知っているのは私だけだったから。
知っていると言っても触りくらいで、手探り状態で吐きそうになりながらとにかく見様見真似で取り掛かった。
叔父に「アイツ、ほんとは花奈子に継いでほしかったんだよ。」と言われた。初耳だった。
ほんと、最後まで愛情表現もコミュニケーションも下手な父親だと呆れた。
それでも、仕事のことを気にかけて悔し涙を流す父の姿を何度も見たから。
最後にした会話も仕事のことで「大切なんだ」と息も絶え絶えに言われたから。
大切なら病気がわかった時点でもっとちゃんとしておいてよとは思ったけど。
私が継げなくても、なんとか誰かに引き継げるよう残せるよう頑張ってあげたかった。
どんなにしんどくても最後の親孝行をやり切りたかった。
稽古場と父の仕事場に行ったり来たりの日々が始まった。
休む暇もなく、とにかくこなした。
自分のことだって何一つ諦めたくなかった。
稽古期間は決して長くない上に、初めての手話もある。
自主練習の時間もなかなか取れず過ぎる日々にじんわりと募る不安やストレス、なんだか喉が変に締まったままの息苦しさが続いた。
水を飲んでも飲んでも渇いて苦しくて怖くなった。
なんとなく常に揺れてるような感覚に襲われた。
布団に入っても眠れないまま朝が来た。
たまに眠れたと思えば、稽古に合流するもついて行けず立ち尽くす夢を見た。
SNSや配信をしたかったけど言葉がなにも出なかった。
そんな中でも当たり前のように予約をしてくれるみんなの名前を見て救われた。
稽古を休む理由を父のことは伏せ
「家庭の事情で」と伝えるとある人は
「"家庭の事情"、ね。」と鼻で笑った。
あの瞬間の喪失感を私はこの先、一生忘れないと思う。
自分の家に帰れない日が続き、
駅ビルで「このマネキンの服一式ください」
と働かない頭で普段買わない系統の服を買った。
帰って着てみたらきっつきつだった。
着るのに数分の格闘を要した。
ようやく着られてもキツくて座る体勢をとれない。
なぜ私は普段買わない系統の服を試着もせずに買ったのか。
わけがわからなかった。
二度とこういう時に買い物はしないと誓った。
父が家から運ばれてしまう日の朝。
寝たり起きたりで落ち着かず、早めに布団から出て、なんとなく父の部屋にずっと居た。
傷まないようにガンガンにエアコンがかかった部屋は寒くて静かだった。
時折、エアコンの風の音が寝息のように聞こえてその度に泣けてきた。
ずっと自室にエアコンを付けなかった父に
「流石に今の体じゃ夏にエアコン無しはムリでしょ」
と、母と説得して数週間前に設置したエアコン。
こんな事に使うためじゃなかったのに。
でも、あの時設置したからここに居られるわけで。
人生って変なところでうまく出来てるものだよなぁ、って笑いながら泣けてきた。
お通夜。
納棺を家族・親族で手伝わせていただいた。
療養中、浮腫んで痛々しいほどに腫れ上がった足を私がお風呂上がりにマッサージしてあげていた。
父は気持ちよさそうに「花奈子にやってもらうとよくなった気がする」と頷いていた。
それがなんだか嬉しかった。
お風呂上がりにクリームを持っていそいそと私のところへ来る父は子どもみたいだった。
お清めで父の足や手にクリームを塗ったとき、想像以上に浮腫んで腫れあがった冷たい足にとてもショックを受けた。
お風呂上がりのぽかぽかになった父の足と目の前で触れてる足が別物に思えて辛かった。
クリームと涙がどうしても混ざってしまった。
斎場の人が支度をする度に
「これが最後の〇〇です。」
と言うのがなんだか変な感じだった。
泣きながらも、そんなに念押ししなくてもとツッコミたくなった。様式美。
告別式。
出棺の時に遺影を私が持つことになった。
母が遺影を預かった私を見て
「ツーショットだ」と弱々しく笑った。
遺影とツーショットはあんまり嬉しくなかった。
そういえばツーショットで撮った写真なんて幼少期が最後かもしれない。
そんなことをぼんやり思いながら式場を出ると真っ青な空が広がっていて、気持ちの良い風が吹いていて、父の病気を知った冬からあっという間に初夏になっていたことになんだかまた泣けてきた。
火葬場。
火葬炉に棺が入れられ扉が閉じてようやく、
もう会えないんだと理解と感情が追いついた。
足に力が入らなくて妹と肩を寄せあった。
本当にばかだなぁって思った。
ただただ、寂しかった。
骨だけになった父と対面した時。
骨にもあちこち癌が転移してると聞いていたから、ほとんど骨が残らないことも覚悟していたのに、父の骨はそれはもうしっかり残っていた。
なんなら骨壺にちょっと収まらなくて整えてもらった。
変な言い方だけど、癌以外はちゃんと元気だったはずなのだ。
放って置かなければ少なくとも60歳までは余裕だったろうに。
また悔しさと呆れで泣けてきた。
本当に、ばかな人だ。
全てが終わって骨壺と一緒に帰宅し、
家族6人で輪になってお酒を飲んで話をした。
久しぶりの"家族6人“がなんだかとっても楽しくて嬉しかった。
お父さんとお母さんが居て、お兄ちゃんと妹と弟が居て、私が居る。
この6人で家族で居られて幸せだと改めて思った。
そんな日々を過ごしているうちに気がつけば本番が迫っていた。
なんてことない顔で稽古場に行くのも慣れてきていた。
日に日に濃くなるクマをうまく隠しきれていたのかは不明だけれど。
芝居以外の時間をちゃんと笑えて過ごせてるのかわからなくなる時が不意にあり、輪に入るのがうまく出来ない時もあった。
会話しててもちゃんといつもの自分なのかわからなかった。
別に無理して笑顔で居ることもない。
わかってはいたけど。
なんだかもう自分の感情がよくわからなかった。
とにかく気を張り続けないとダメな気がした。
だからなんとか笑顔で過ごし続けた。
劇場入り前の最後の休みも会社に缶詰だったが、なんとか月末までに終わらせなければいけないすべての仕事を片付けることが出来た。
後は、舞台が終わって来月からゆっくり周りへ引き継げば大丈夫。
正直、本番中も行ったり来たりを覚悟していた。
でも片付けた。
私はなんだ。天才か。
ついでに引継ぎ資料も少し手をつけた。
はーーー、やっぱり天才でしかなかった。
父の遺影にドヤ顔を見せつけてやった。
小屋入りした日の帰り道はなんだか少し泣けた。
ここまで来れた。
降板せず、体調も崩さず。
父の仕事も、私の仕事も守ってこれた。
あとはちゃんと本番の1回1回をお客様にお届けする。
それがすべて終わって始めて貫き通せたことになる。
あと少し、あと少しだ。
場当たりを終え、ゲネプロを終え、
いよいよ残すは本番のみ!
と、なった初日前日。
父の仕事関係の人から電話が入った。
「どうしても明日中に確認してほしい書類がある。」
吐きそうだった。
小屋入りしてからは空き時間が怖かった。
誰かと話したり何かしてないと
急に気が抜けてダメになる気がした。
気持ちがざわざわした。
何人かうざ絡みをしてしまった。
申し訳なかった。
初日の幕が上がり、客席から笑い声が聞こえた瞬間、すべてが報われた気がした。
あぁ、よかった。
頑張れてよかった。
お見送りでロビーに出た時も嬉しい感想をいただけて泣きたくなった。
ここまで来れた。
絶対に残りもやり切ろう。
帰り道はやっぱり泣いた。
母が観劇に来る前日の夜、父の夢を見た。
一緒にリビングでTVを見てる夢。
アーティストのライブ映像とかゴルフのCMとか流れてた。
父はTVが大好きで家に居る時はいつでも見てた。
2人であーだこーだ言いながら笑った。
夢の途中で父はもう居ないはずなのにと唐突に気づいた。
ちょっと心配そうな母がリビングを覗きに来た。
自分は一人でTVを見ているんだと、呆然となった。
それでも私の横には笑顔で父が寝そべっていた。
生きてるとか死んでるとか、よくわかんないよ。って思って目が覚めた。
泣いてるかと思ったけど泣いてなかった。
でもどんどん寂しさが押し寄せてきて泣き出してしまった。
父は一度も私の舞台を観に来たことは無い。
そういうのに興味が無い人だった。
夢ですらTVを見ていた。
だから今回だって劇場にはいないだろう。
なのになんで母が観劇に来るタイミングで夢に出るのか。
泣きながら、目が腫れないようにドライアイスを取りに行った。
この1ヶ月痛感した。
父が病気になった時は呆れてモノもいえなかったし「自業自得すぎて死んでも泣けないな」と何度も思った。
でも、思ったより父の存在は大きかったらしい。
あんまり、平気じゃなかった。
いよいよ残すところ千秋楽のみ!
ここまできたぞ!!!
という千秋楽の前日の夜。
土日は持ち歩かなくてもう平気だろう。
と、家に置いて出た父の携帯。
帰宅して見ると多数の不在着信が入っていた。
吐きそうだった。
そして、
追い討ちをかけるように父方の祖母の訃報が届いた。
2〜3年前に倒れて植物状態で目を覚まさなかった祖母。
まるで父が逝ったのを追いかけるようだった。
そんなザワついた中で、
千秋楽を迎えた。
カーテンコールは泣きそうだった。
吐きそうな日々だったけど、
舞台が成功して楽しかったなと思えた。
状況的に打ち上げは参加しないつもりだったけど、全体打ち上げの前に少人数で飲みに行くからと声をかけてもらえた。少人数ならそこまで気を張らなくてもいいかも、と参加した。
舞台上で全く絡まない人とも話せて打ち解けてすごく楽しかった。
もっと早くこういう時間があったらこの1ヶ月がもう少しマシだったのかなって思うくらいに。
舞台、降板しなくてよかったなぁって思った。
1ヶ月。
振り返ってみると愚痴ばかりだけど、
走り続けて本当に良かったと思う。
祖母のお葬式もまだ控えてるけど。
舞台の成功を納めることが出来たからあとはもう何でも来いだ。
全部が終わったら
好きな人たちとご飯して騒いで
それからゆっくり休もうと思います。
そしたらまたSNSや配信でみんなと楽しいを共有したいです。
ちょっとだけごめんね。
時間ください。
すぐ戻るかもしれないけど笑
読んでくれてありがとうございます。
お父さん。
私から見たら貴方は最初から最後まで我を通した人生で、なかなか良いものだったんじゃないでしょうか。
ようやく一息つけた今も、かける言葉は見つからないし、どちらかと言えば毎日吐きそうなほどとても嫌な思いと大変な思いをした1ヶ月だったと小言を言わせてほしいです。私じゃなかったらやり切れませんでした。ボーナスください。
貴方はちょっと笑って誤魔化すんでしょうけれど。そもそも自業自得で病気を患ったも同然なんですからね。笑ってないでボーナスください。
それでも。やっぱり、
貴方の娘で楽しかったと思えます。
お父さんで居てくれてありがとう。
家族にしてくれてありがとう。
好きなことを選べる環境をありがとう。
仕事、継げなくてごめん。
でも出来る限りのことはしたから安心して。
あとは貴方の娘らしく我を通す人生を楽しみたいと思います。
本当に、お疲れ様でした。
来世では一度くらい舞台観に来るように。
コメントをお書きください
2XT人柱改 (月曜日, 03 6月 2024 01:36)
まずは素敵なお芝居をありがとうございました。
それとどうお声掛けしたものか分からんのですが、今はゆっくりなさって下さい。亡くなった人の声を聞くことはできないけど、お父様はきっとあまりさんを自慢していると思います。あまりさんもあまりさんであることを自慢しながらゆっくり戻ってきてください。
勢也 (月曜日, 03 6月 2024 01:46)
ふとポストを見かけて読ませていただきました。
お父様とお祖母様の件、心からお悔やみ申し上げます。
かなこちゃんは、本当に強い人なんだなと思いました。
お父様のお仕事と芝居の両立、心身ともに計り知れない労力だったと思います。
そんななか最後まで保ち続けて、やり切って、走り抜いて本当に凄い。
お疲れ様でした。
どうぞゆっくりお休みください。
とーわ (月曜日, 03 6月 2024 02:46)
本当に、いろいろと大変でしたね…それでも走り切ったこと、おつかれさまでした。まだ、やることもあり、おばあさまのこともあり、休めないかもしれませんが、それが終わりましたら、ごゆっくりなさってくださいね…
山 中 (月曜日, 03 6月 2024 03:51)
最高に楽しい舞台お疲れさまでした。
そしてこの度はお悔やみ申し上げます。
自分も3月に母を亡くし、ここ数年…家族及び親戚の不幸が続いているので、少しは大変さとか気持ちわかります。
これからまだ法事とか色々大変でしょうが、
その後はゆっくり気持ち体力ともに充電してください。
活動再開をゆるふわっと待ってます。
ナベケン (月曜日, 03 6月 2024 14:04)
ごめんなさい。1番近くで共演していたのに気遣いが全く出来なくて。いや違うな、貴女は芝居が滞らないよう周りに気遣いさせまいと懸命に自分の気持ちを舞台の外に置いていたんですね。僕はその懸命さに鈍感でした。甘莉花奈子は本当にプロの女優です。
あっきーら (月曜日, 03 6月 2024 18:19)
xにリンクが張られて電車の中で読もうとするも10行以上読むと涙が出そうで何度かチャレンジしたけど諦めて結局仕事を終わらせてから読ませて頂きました。
自分も去年父親が亡くなったばかりで、それとどうしても重ねて考えてしまいます。
甘莉さんは、色々あったにも関わらず芝居をやり遂げました。誇っていいと思います。
ゆっくりでも早くてもいい、戻ってくることを待ってます。